国府神社・・・この付近が大和国府所在地
  大字下土佐字ナマコ山に所在する神社です。古代の国府(現在の県庁所在地)がこの付近にありました。坂上田村麻呂の祖父である坂上犬養(いぬかい)が大和守やまとのかみ、現在の知事)に任命され、この大和国府に赴任し、故郷の高取町に錦をかざりました。
  山城(京都)・大和(奈良)の両国はともに宮都の置かれた地であり、当然のことながら、宮都の所在地との関係で、国府所在地にも何度かの移転があったと推測され、関連資料が少ないこともあって、両国国府の所在地には諸説があります。


  国府の所在地は、奈良県高市郡役所が出している「奈良県高市郡志料」によると、「大和志」に「国府神社在土佐村」とあり、またその拝殿に掲げる扁額へんがく、門戸などにかける細長い額)は「国府宮」の三字を表していたとあります。神社の付近に松笠(馬司、うまづかさが訛ったもので、官馬の管理を行った役所)、ミマヤ(御厩)等の小字があり、国府に関係する地名でこの神社付近に国府があったと考えられるとしています。平城京遷都とともに現在の大和郡山市今国府町に移りました。
  
  また、大和文化研究会によりますと、大和の旧国府の地は、この国府神社の土佐の地が国府の地に考えられることは、付近の壷阪寺の「壷」の字が、奥州多賀国府の「壷の石碑」の壷同様国府の宛字であり、壷阪寺は国府阪寺の意味であったとしています。
  国立歴史民俗博物館における「古代の国府の研究」の研究報告によりますと、大和国府所在地の学説は、(a)大和郡山市今国府、(b)御所市大字名柄、(c)御所市掖上、(d)橿原市久米町〜丈六、(e)橿原市西池尻町〜東池尻町、(f)北葛城郡香芝町、(g)高市郡高取町大字下土佐字ナマコ山の7地があがっています。(g)を主張するのは、高市郡役所、日本地名学研究会、大和文化研究会などであり、平城京遷都に伴い、(a)に移ったものと考えられています。